夏の終わりの脱臭炭

脱臭、それは、運命。

あまりにも馬鹿馬鹿しいものを楽しむこと

あまりにも馬鹿馬鹿しいものを、期待をこめて歴然と楽しむこと。

 

馬鹿馬鹿しいものを馬鹿馬鹿しいと、笑いながら、決然としてその馬鹿馬鹿しさを楽しむこと。

 

それだけで少しだけ人生の重さは軽くなるんじゃないだろうか。いつだって人生はどんな形にしても重いのだから、モノの力を借りて軽くしていくのである。おそらくこの世は、どのように振舞ってもみなモノでしかできていないーーいや、この世は結局はモノばかりでできている。

 

そのモノをどう意味づけていくかが常に問われているだけで、どこまで言ってもモノの地平が広がっている。言葉で重くなったモノといつも付き合うことは自分自身を重くしていくのだ。だからある種の嗜癖がいつでもどこかで奇妙な自壊の色合いを保っているのは、そうした自分自身のモノとしての重さを軽くしていくことに向かっていくためなのだ。

 

あまりにも馬鹿馬鹿しいものを見据えていくこと。何故ならどんなに私たちが真面目な顔をしているふりをしても、目の前にあるほとんどすべてのものは無意味か無意味に近いものなのだ。

 

外に出て一杯のラムネを飲み干すことで、どうにか世界が正気に近付くことがあるだろう。その下の上を泳ぐ泡と接触したとき、自分自身の重さとその泡の軽さが触れ合って重なりあった時、世界の重さは少しだけ、自分の積み上げた意味の重さが失われる。飲み干す瞬間だけは、積み上がっていく世界の意味の前でーーテトリスのポーズ画面のようにーー重さからこの世が猶予されるのである。

 

あまりにもこの世が馬鹿馬鹿しいほど重い時は、自分自身を誤魔化すことは間違ったことでは絶対にない。

 

グレタ・ガルボ・ホーム

その点でいうと、また別の例が思い出される。

ジョン・サイモンによる『マイ・ネーム・イズ・ジャック』だ。この曲がもっともよく知られるのはマンフレッド・マンによるカバーだろう。日本ではムーンライダーズピチカートファイブがカバーしている。

 

ジャックと名乗る少年の「グレタ・ガルボ・ホーム」での楽しい思い出が歌われているのだがーーその「グレタ・ガルボ・ホーム」とは何かという問題は別にしてーー気になるのは冒頭の箇所だ。「僕の名はジャック/グレタ・ガルボ・ホームの後ろに住んでる/僕がどこにいっても思い出す、友だちと一緒にさ(With friends I will remember/ wherever I may roam)。

私は英語が専門ではないので、ややもやっと捉えてしまうわけだが、しかしこの箇所はいつも気になるーーこの語り手はいつ、どこにいるのだろうか?このwillは何を指し示しているのだろうか。どうしてもこの箇所を見るたび、過去未来的な用法として見てしまう。

 

ちなみにニコニコ動画で訳している字幕では、「いっしょにいるやつらのこと、きっとこの先思い出すこともあるんだろうな」と訳されている。これは明らかに過去未来的な解釈で、ジャックと名乗る僕はもはや存在しない過去のほうから未来に向かって語りかけている、ということになるのだろう。

 

つまり作り手は過去に向かって遡りながらこの曲を書いているのだが、その中で作中で仮託された語り手は未来に向かって語り続けているーーその構造の中に、回想の中にあるフィクション性を伺わせるのは妥当のようなことに思う。

 

ところで、鈴木慶一訳の『マイ・ネーム・イズ・ジャック』は原詞よりだいぶ超訳していてかなり面白いですね。

 

My Name Is Jack

My Name Is Jack

  • マンフレッド・マン
  • ロック
  • ¥250

 

 

いつのことだか思いだしてごらん

「あんなーこーとー、こんなーこーとー、あーったーでしょー」という曲がふと頭の中を駆け巡った。酒に酔って帰った時にぼんやりと頭の中を回り始め、ストロングゼロでくるくるした頭の中にどうしてこんなものが、と思わずにはいられなかった。おそらくは何か具体的な記憶と繋がるものではなかった、そのはずだ、とは思っている。どうしてふいにこんな曲のことを思い出すのだろうと気になって、調べてみようとしたら、どうしてもそのタイトルを思い出せなかった。

 

ええと、なんだっけ、と結局、歌詞で検索してしまった。『おもいでのアルバム』というようである。

 

 

よく考えたら、私自身も幼稚園児の時分に歌ったように思うのだが、結局、歌唱したという事実とメロディだけが頭の中に存在していて、それ以外はすっぽりと抜け落ちている、というのがこの事態を透かし彫りにしているような気がしてならない。

おもいでのアルバム、というおもいでを私は忘却してしまっている。おもいでのアルバムはたしかに存在しているが、外形が思い浮かぶだけで、決してどこにあるかわからないのだ。

 

その中でも時々思い出すのは、最後のフレーズである。「うれしかったこと/おもしろかったこと/いつになっても/わすれない」。曲の盛り上がりは最後の「わーすれーなーい」というところでクライマックスに達するのだが、よく考えるとこれはこれで奇妙なものである。

 

嬉しかったこと、面白かったことというものが大事であるのならば、どうして忘れてしまうのだろうか。いや、どうして忘れてしまうことを彼らは知っているのだろうか。曲のクライマックスに持ってくるほど、それが大事なものだとどうして知っているのだろうか。

 

例えば毎日が楽しいことで満ちている幸福な幼稚園児は、楽しかったことを忘れないことを誓うというのは、あまりありえないことのように思うのだ(野原しんのすけがこんなことを言い出したらたいへんに心配になる)。明日も嬉しいことや楽しいことが続くと確信しているなら、こんなことを考えることはないだろう。

 

おそらくはある種のパフォーマティブな意図があるのだろう。逆説的に、これは楽しかったことこそ忘れてしまう、ということを知っている大人が作ったものなのである。どれだけ容易く、楽しかったことや嬉しかったことが失われてしまうことかを知っている人間に、つまり大人に向けて響くのではないのか。

 

 

どうしてこのようなことを考えているか、というと、私自身、ふと思うからだ。あの頃におそらく楽しかったはずの事柄を全く覚えていない、と。いや、楽しかったのだろう、とは考えられる。

 

もちろんある種の状況証拠はたくさんあるし、頭の中を覗き込んでも、おそらくは楽しかったはずだ、というぼんやりとしたタグ付けのもとに放り込まれているからだ。逆にいえば、それしか見つからない。

 

このタグ付けーーこの薄い皮膜のような何か、が、実は重要なのかもしれない。ぼんやりと見返して楽しかったね、と言える程度の過去は、よく手懐けられているという証拠なのだろうから。

 

 

確か、どこかで、ある種の部屋の中に閉じこもるように情報を制限していたら、過去の記憶のかなりの部分を取り戻したという記事を見たように思う。

 

そのように過去が仕舞い込まれているというのは、むしろそれがよく手懐けられていることではないのか。現在を制限しない程度に手を伸ばさないような過去に留まっている、という安心が重要なのかもしれないのだ。二つ置かれた茶色の小瓶のうち、ちゃんとラベルが貼ってあるほうが安心なことは言うまでもない(そういう意味では、某作品のエラリー・クイーンはやっぱり正しいんだろう)。

 

そう考えると、この『おもいでのアルバム』が参照しているのは歌っている当人のおもいでのアルバムではなく、むしろその周辺の人々のおもいでのアルバムなのだ。親や保護者のアルバムであり、当人のものとは決していえないだろう(あるいは、現在、私がそうであるように、過去の記憶を頼りにしているほとんど別人としての当人に、向けられている)。

 

 

下手をすると、この曲自体がある種の記憶の曖昧さを最初から書き込んでいると解釈することも可能だ。「あんなこと/こんなこと/あったでしょう」というのはその「あんなこと」の空白を聞き手に委ねているのではなく、むしろその空白しかないことを指し示しているのではないかと思っている。それは深読みだろうか。

 

結局、その空白を埋めるのは当人ではなく、集合的に形作られていくものなのではないのか。結局、実体としてのアルバムにしろ、言葉などで知識として共有された事項にしろ、それをすでに埋めているのは自分ではなくほかの誰かであり、その誰かが編纂した記憶を頼りにして、自分自身の記憶を再構築するしかないのだ。

 

 

いやあ、まあ、それでも、ああだこうだ言っても、結局、アルバムは楽しくめくれれば、それでいいのだと思う。あてがわれたものにしても、何にしても、それはそれでいいということにしておいた方が無難だと思う。

 

そのぼんやりとした輪郭しかないこと自体を、イベントや時候に結びつけられた、曖昧にタグ付けられた感情しかないという、そのこと自体を私たちは喜んでいるのだろうから。つまりは曖昧なタグ付けの方が、おもいでは遥かに幸福な過去でいてくれるのだ。

 

というのも、かえってそれから本当の記憶は何かと降りていくことのほうが、危険かもしれないので。結局、解釈者としての自己は、事実の重さに耐えうるほど、さほど強いものじゃないかもしれないのだから。

 

その同一性を欠いていることこそが、むしろおもいでに求められていることなのだ。

 

おもいでにエビデンスを求めてはならない。おもいでは訴訟でも論文でもない。おもいでが優しいのは、どこかで常に創作され、フィクションの皮膜をまとい続けている時のみである。

 

 

ところで、ダーク・ダックスが歌ってたんですね。〉『おもいでのアルバム』

おもいでのアルバム

おもいでのアルバム

  • 鎌田典三郎 & 西六郷少年少女合唱団
  • J-Pop
  • ¥150