夏の終わりの脱臭炭

脱臭、それは、運命。

いつのことだか思いだしてごらん

「あんなーこーとー、こんなーこーとー、あーったーでしょー」という曲がふと頭の中を駆け巡った。酒に酔って帰った時にぼんやりと頭の中を回り始め、ストロングゼロでくるくるした頭の中にどうしてこんなものが、と思わずにはいられなかった。おそらくは何か具体的な記憶と繋がるものではなかった、そのはずだ、とは思っている。どうしてふいにこんな曲のことを思い出すのだろうと気になって、調べてみようとしたら、どうしてもそのタイトルを思い出せなかった。

 

ええと、なんだっけ、と結局、歌詞で検索してしまった。『おもいでのアルバム』というようである。

 

 

よく考えたら、私自身も幼稚園児の時分に歌ったように思うのだが、結局、歌唱したという事実とメロディだけが頭の中に存在していて、それ以外はすっぽりと抜け落ちている、というのがこの事態を透かし彫りにしているような気がしてならない。

おもいでのアルバム、というおもいでを私は忘却してしまっている。おもいでのアルバムはたしかに存在しているが、外形が思い浮かぶだけで、決してどこにあるかわからないのだ。

 

その中でも時々思い出すのは、最後のフレーズである。「うれしかったこと/おもしろかったこと/いつになっても/わすれない」。曲の盛り上がりは最後の「わーすれーなーい」というところでクライマックスに達するのだが、よく考えるとこれはこれで奇妙なものである。

 

嬉しかったこと、面白かったことというものが大事であるのならば、どうして忘れてしまうのだろうか。いや、どうして忘れてしまうことを彼らは知っているのだろうか。曲のクライマックスに持ってくるほど、それが大事なものだとどうして知っているのだろうか。

 

例えば毎日が楽しいことで満ちている幸福な幼稚園児は、楽しかったことを忘れないことを誓うというのは、あまりありえないことのように思うのだ(野原しんのすけがこんなことを言い出したらたいへんに心配になる)。明日も嬉しいことや楽しいことが続くと確信しているなら、こんなことを考えることはないだろう。

 

おそらくはある種のパフォーマティブな意図があるのだろう。逆説的に、これは楽しかったことこそ忘れてしまう、ということを知っている大人が作ったものなのである。どれだけ容易く、楽しかったことや嬉しかったことが失われてしまうことかを知っている人間に、つまり大人に向けて響くのではないのか。

 

 

どうしてこのようなことを考えているか、というと、私自身、ふと思うからだ。あの頃におそらく楽しかったはずの事柄を全く覚えていない、と。いや、楽しかったのだろう、とは考えられる。

 

もちろんある種の状況証拠はたくさんあるし、頭の中を覗き込んでも、おそらくは楽しかったはずだ、というぼんやりとしたタグ付けのもとに放り込まれているからだ。逆にいえば、それしか見つからない。

 

このタグ付けーーこの薄い皮膜のような何か、が、実は重要なのかもしれない。ぼんやりと見返して楽しかったね、と言える程度の過去は、よく手懐けられているという証拠なのだろうから。

 

 

確か、どこかで、ある種の部屋の中に閉じこもるように情報を制限していたら、過去の記憶のかなりの部分を取り戻したという記事を見たように思う。

 

そのように過去が仕舞い込まれているというのは、むしろそれがよく手懐けられていることではないのか。現在を制限しない程度に手を伸ばさないような過去に留まっている、という安心が重要なのかもしれないのだ。二つ置かれた茶色の小瓶のうち、ちゃんとラベルが貼ってあるほうが安心なことは言うまでもない(そういう意味では、某作品のエラリー・クイーンはやっぱり正しいんだろう)。

 

そう考えると、この『おもいでのアルバム』が参照しているのは歌っている当人のおもいでのアルバムではなく、むしろその周辺の人々のおもいでのアルバムなのだ。親や保護者のアルバムであり、当人のものとは決していえないだろう(あるいは、現在、私がそうであるように、過去の記憶を頼りにしているほとんど別人としての当人に、向けられている)。

 

 

下手をすると、この曲自体がある種の記憶の曖昧さを最初から書き込んでいると解釈することも可能だ。「あんなこと/こんなこと/あったでしょう」というのはその「あんなこと」の空白を聞き手に委ねているのではなく、むしろその空白しかないことを指し示しているのではないかと思っている。それは深読みだろうか。

 

結局、その空白を埋めるのは当人ではなく、集合的に形作られていくものなのではないのか。結局、実体としてのアルバムにしろ、言葉などで知識として共有された事項にしろ、それをすでに埋めているのは自分ではなくほかの誰かであり、その誰かが編纂した記憶を頼りにして、自分自身の記憶を再構築するしかないのだ。

 

 

いやあ、まあ、それでも、ああだこうだ言っても、結局、アルバムは楽しくめくれれば、それでいいのだと思う。あてがわれたものにしても、何にしても、それはそれでいいということにしておいた方が無難だと思う。

 

そのぼんやりとした輪郭しかないこと自体を、イベントや時候に結びつけられた、曖昧にタグ付けられた感情しかないという、そのこと自体を私たちは喜んでいるのだろうから。つまりは曖昧なタグ付けの方が、おもいでは遥かに幸福な過去でいてくれるのだ。

 

というのも、かえってそれから本当の記憶は何かと降りていくことのほうが、危険かもしれないので。結局、解釈者としての自己は、事実の重さに耐えうるほど、さほど強いものじゃないかもしれないのだから。

 

その同一性を欠いていることこそが、むしろおもいでに求められていることなのだ。

 

おもいでにエビデンスを求めてはならない。おもいでは訴訟でも論文でもない。おもいでが優しいのは、どこかで常に創作され、フィクションの皮膜をまとい続けている時のみである。

 

 

ところで、ダーク・ダックスが歌ってたんですね。〉『おもいでのアルバム』

おもいでのアルバム

おもいでのアルバム

  • 鎌田典三郎 & 西六郷少年少女合唱団
  • J-Pop
  • ¥150