夏の終わりの脱臭炭

脱臭、それは、運命。

グレタ・ガルボ・ホーム

その点でいうと、また別の例が思い出される。

ジョン・サイモンによる『マイ・ネーム・イズ・ジャック』だ。この曲がもっともよく知られるのはマンフレッド・マンによるカバーだろう。日本ではムーンライダーズピチカートファイブがカバーしている。

 

ジャックと名乗る少年の「グレタ・ガルボ・ホーム」での楽しい思い出が歌われているのだがーーその「グレタ・ガルボ・ホーム」とは何かという問題は別にしてーー気になるのは冒頭の箇所だ。「僕の名はジャック/グレタ・ガルボ・ホームの後ろに住んでる/僕がどこにいっても思い出す、友だちと一緒にさ(With friends I will remember/ wherever I may roam)。

私は英語が専門ではないので、ややもやっと捉えてしまうわけだが、しかしこの箇所はいつも気になるーーこの語り手はいつ、どこにいるのだろうか?このwillは何を指し示しているのだろうか。どうしてもこの箇所を見るたび、過去未来的な用法として見てしまう。

 

ちなみにニコニコ動画で訳している字幕では、「いっしょにいるやつらのこと、きっとこの先思い出すこともあるんだろうな」と訳されている。これは明らかに過去未来的な解釈で、ジャックと名乗る僕はもはや存在しない過去のほうから未来に向かって語りかけている、ということになるのだろう。

 

つまり作り手は過去に向かって遡りながらこの曲を書いているのだが、その中で作中で仮託された語り手は未来に向かって語り続けているーーその構造の中に、回想の中にあるフィクション性を伺わせるのは妥当のようなことに思う。

 

ところで、鈴木慶一訳の『マイ・ネーム・イズ・ジャック』は原詞よりだいぶ超訳していてかなり面白いですね。

 

My Name Is Jack

My Name Is Jack

  • マンフレッド・マン
  • ロック
  • ¥250