夏の終わりの脱臭炭

脱臭、それは、運命。

あまりにも馬鹿馬鹿しいものを楽しむこと

あまりにも馬鹿馬鹿しいものを、期待をこめて歴然と楽しむこと。

 

馬鹿馬鹿しいものを馬鹿馬鹿しいと、笑いながら、決然としてその馬鹿馬鹿しさを楽しむこと。

 

それだけで少しだけ人生の重さは軽くなるんじゃないだろうか。いつだって人生はどんな形にしても重いのだから、モノの力を借りて軽くしていくのである。おそらくこの世は、どのように振舞ってもみなモノでしかできていないーーいや、この世は結局はモノばかりでできている。

 

そのモノをどう意味づけていくかが常に問われているだけで、どこまで言ってもモノの地平が広がっている。言葉で重くなったモノといつも付き合うことは自分自身を重くしていくのだ。だからある種の嗜癖がいつでもどこかで奇妙な自壊の色合いを保っているのは、そうした自分自身のモノとしての重さを軽くしていくことに向かっていくためなのだ。

 

あまりにも馬鹿馬鹿しいものを見据えていくこと。何故ならどんなに私たちが真面目な顔をしているふりをしても、目の前にあるほとんどすべてのものは無意味か無意味に近いものなのだ。

 

外に出て一杯のラムネを飲み干すことで、どうにか世界が正気に近付くことがあるだろう。その下の上を泳ぐ泡と接触したとき、自分自身の重さとその泡の軽さが触れ合って重なりあった時、世界の重さは少しだけ、自分の積み上げた意味の重さが失われる。飲み干す瞬間だけは、積み上がっていく世界の意味の前でーーテトリスのポーズ画面のようにーー重さからこの世が猶予されるのである。

 

あまりにもこの世が馬鹿馬鹿しいほど重い時は、自分自身を誤魔化すことは間違ったことでは絶対にない。